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【医療翻訳に役立つ基礎知識】No.3 | 結核について (前編)

はじめに

結核(Tuberculosis)は20世紀初頭から用いられるようになった病名で、それ以前は、英語ではConsumption、ヨーロッパではラテン語のPhthisisと呼ばれていた。

いずれも結核に特有の「衰弱」を意味する病名である。昭和40年頃まで、日本でも大学病院では肺結核をPPと書いたが、PPはラテン語のPhthisis Pulmonum(肺結核)の頭文字であった。
結核((Tuberculosis)の由来は、結核の特徴的病理所見が結節性病変(Tuberculous Lesion)であったことによる。

結核の歴史

結核は古くて新しい病気であり、人類と結核の関わりは、有史以前にまでさかのぼることができる。結核が感染症のひとつと認識されたのは1882年Robert Kochによる結核菌の発見以来であり、それ以前は遺伝性疾患と考えたひとも多かった。

結核の感染経路は空気感染(Airborne Infection)であるため、狩猟を生業としていた部族、もしくはそのような時代には、結核感染の危険はほとんどなかった。結核が増え始めたのは、人類が農耕社会を形成し、土地に定着して集団生活をするようになってからである。

西欧諸国で結核が死因の一位を独占し、「白い疫病(White Plague)」と怖れられるようになったのは19世紀、英国で始まった産業革命以降で、その主な原因は、

① 都市化による人口密度の増加、
② 劣悪な住居環境(スラムの形成)、
③ 貧困層の増加(低栄養)にあった。

19世紀後半から20世紀にかけてアメリカ原住民で結核が蔓延したことは有名であるが、結核の急増は、西部開拓後、居留地(Indian Reservation)にアメリカ原住民が強制収容されてからであり、結核死亡率は1886年には人口10万人当たり9,000にも達した(約10人に1人が結核で死亡)。

西ヨーロッパ、アメリカ、東ヨーロッパ、日本などでも、産業の近代化と都市化の進行とともに、結核は猛威をふるった。日本では女工哀史で有名な富岡などの製糸工場へ集団就職した若い女工に結核患者が多発し、その多くが亡くなった。

現在は、アフリカ、東南アジアなどの発展途上国に、世界中の結核患者の90%以上が集中している。現在も結核感染拡大の要因は、人口増加と貧困のふたつであるが、現在は、第三の要因として新たにエイズ(HIV Infection)が加わった。エイズ蔓延も、結核と同じく、根底には貧困が大きく関与している。

19~20世紀にかけて、結核で夭折した有名人は多く、

Friedrich von Schiller(1759-1805):46歳「歓喜の歌(第九交響曲)」の作者、
Robert Schumann(1810-1856):46歳 詩人、音楽家、梅毒にも罹患、
Charlotte Bronte (1816-1855):39歳 「嵐が丘」の作者、
Vivien Leigh (1913-1967):54歳 女優「風とともに去りぬ」主演、

日本では、

正岡子規(1867-1902):35歳 俳人、
滝 廉太郎(1879-1903):24歳 作曲家、
樋口一葉(1872-1896):24歳 作家、
石川啄木(1886-1912):26歳 歌人、

など、その数は多い。

呼吸(いき)すれば、胸の内に鳴る音あり、凩(こがらし)よりもさびしきその音
石川啄木

夕されば、熱高まりぬ、梨もかも糧(かて)欲しからず、牛の乳もいや
正岡子規

あらたまの年の三年(みとせ)を臥して今日、起きて座りぬ、嘘にはあらず
正岡子規

などの短歌は、結核との闘病で悩んでいた先人の悲しい心境を現代に伝えるものである。
昭和13年~20年(終戦)の7年間で戦死者数と結核死数はいずれも約230万名で、両者はほぼ等しく、昭和25年頃まで結核はわが国では亡国病、もしくは国民病と呼ばれていた。

現在の結核

結核は再興感染症(Resurgent Infection)として1990年頃から世界的に再度着目され、WHOは結核をGlobal Emergencyと位置づけた。再興(Resurgent)とした理由は、ほぼ消滅に近かった結核が、欧米で再度増え始めたことによるが、その原因はAIDSの増加にあった。

日本でもAIDSとは関係なく、1997年、新規発生結核患者数と結核罹患率がそれぞれ、38年ぶり、43年ぶりに増加に転じたことから、厚生省は結核緊急事態宣言を1999年に発令した。

その後、結核は再度漸減傾向にあるが、集団発生事例は毎年20~50件も全国から報告され(結核予防会 結核の統計 2010)、2010年の結核死亡者数は2126名、死亡率は1.7(人口10万対)で、その減少はわずかであり(平成22年 結核登録者情報調査 厚生労働省)、結核は依然として、わが国でもっとも警戒すべき感染症である。

日本の結核の動向

わが国の結核の動向は、以下の6点に集約できる(平成22年 結核登録者情報調査)。

結核罹患率(人口10万対)は18.2、新登録患者数は23,261人で、1日あたりに換算すると約64名の結核患者が全国から新規登録されている。

70歳以上の高齢者結核患者は新登録患者の過半数を占め(51.2%)、その割合は毎年増加しつつある。

感染の危険がある(=排菌陽性)結核患者のうち、働き盛り(30~59歳)の症例ではその32.6%で2カ月以上の受診の遅れがある。

外国国籍の新登録結核患者数は増加しつつあり、20歳代の新登録患者では29%を占めるまでになった。

結核罹患率の地域格差は顕著で、大阪(47.4)、名古屋(31.5)、東京(26.0)などの大都市で高く、長野県(9.1)でもっとも低い。

日本の結核罹患率18.2(人口10万対)は、米国4.1、カナダ 4.9、スウェーデン 5.6に比べれば、約4倍も高く、現在もわが国は結核-中蔓延国である。

以下、重要と思われる点について説明する。

1) 結核罹患率の推移

わが国の結核罹患率は1998年から2010年までの12年間に32.4から18.2に低下した。今後も同様の低下率で推移すると仮定すると、米国、カナダのレベルに到達するまでには20年以上を要し、早くても2035年頃となる。

2) 高齢者結核の増加と男女差の拡大

わが国の新登録結核患者で70歳以上の高齢者が占める割合は、毎年増加しつつあり、平成22年(2010)には51.2%に達している。

高齢結核患者の中には、新規感染の症例もあるが、ほとんどは再発例である。ただし、再発例とはいっても、結核発病の既往が不明の症例も多い。1945年終戦後の日本は、衣食住環境が劣悪で栄養状態も不良であったため、結核感染の頻度は極めて高く、当時10~20歳代の日本人の多くはツ反自然陽転者で結核既感染者だった。

戦後67年経った現在、この人たちは70~90歳の世代に属し、この中から新登録結核患者が多数発生している。したがって、この世代が10~15年後、天寿を全うする頃に一致して、わが国の高齢者結核と新登録結核患者数は大きく減少するかもしれない。

しかし、平均寿命が更に延びると、結果的に高齢者結核の増加につながる可能性もある。
高齢者結核の多くが再発例であるという事実は、治療の有無とは関係なく、若い頃に感染した結核菌が50年以上たってもそのひとの体内で生き残る能力があることを意味する。

したがって、結核は、「不治の病」もしくは「一生の病」といっても過言ではない。

昭和30年(1955)頃までの結核入院患者は若い患者がほとんどで、男女差はあまりなかったが、次第に男性優位となり、平成18年(2006)には男女比はほぼ2:1となった。

男性優位となった最大の理由は、昭和30年頃まで結核患者のかなりを占めていた若年女性患者が激減したことにあるが、熟年離婚率が増加し、独り暮らしの中・高年男性の増加も関与している。

3) 受診の遅れの疫学的意味

結核感染経路は空気感染であるため、排菌陽性となる以前に診断し、治療を開始できれば、新たな感染源の発生を未然に防ぐことができる。しかし、結核の臨床経過は通常、緩徐(Insidious)であるため、空洞(Cavity)を形成し大量排菌となっても仕事を続けている症例に遭遇することは多い。

受診の遅れは、感染源となる排菌陽性患者の隔離を遅らせる結果となり、結核予防上大きな障害となる。

4) 外国国籍結核患者の増加

フィリッピン、ベトナムなどの東南アジア、アフリカ、インド、などの国から日本へ来て、長期滞在する外国人の数は毎年増加している。これらの国は、結核の高蔓延国であるため、来日後結核を発病、もしくは診断されるひとも高い。

この結果、20歳代では、新登録結核患者の約3割を外国人が占めるまでになった。国際交流の発展に伴い、この傾向は今後も続くと思われる。

5) 結核罹患率の地域格差

西高東低の結核罹患率格差の存在は、昔から周知の事実である。

この格差が生じた理由は不明であるが、わが国に結核を多く持ち込んだのは弥生人であるとすれば、弥生人が大陸から西日本を中心に大挙渡来した紀元前2・3世紀頃から、この格差は存在していたかもしれない。

東京、大阪などの大都市で結核罹患率が高いのは、結核の特徴でもあり、今後もこの傾向が続くのはやむをえない。

毛利昌史

毛利昌史

東和病院名誉院長。東京大学医学部医学科卒業。米国ミネソタ大学留学(フルブライト留学生)ミネアポリス市Mount Sinai Hospital勤務。帰国後、東京大学第二内科助手、東京大学医学部附属病院中央検査部講師、三井記念病院呼吸器センター内科部長などを歴任し、平成15年に国立病院機構 東京病院名誉院長に就任。その後化学療法研究所付属病院院長、東和病院院長を経て現在は東和病院名誉院長。

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