医療医薬翻訳事情

 

 

「新薬発見物語」

医薬分野の翻訳では、新薬の開発にかかわる多種多様な文書が対象になっていますが、そもそも新薬はどのように開発されるのでしょうか。背景を知ることは、原文の内容の理解度を高め、結果翻訳品質の向上につながります。製薬会社で実際に開発業務に携わった筆者が、感染症に関する医薬品開発の歴史の一部をご紹介いたします。

 

新薬の突破口

最近の科学の発展は目覚しく、医療に関しても例外ではない。その一例として癌を考えてみると、かつて癌であると宣告されれば多くの患者、家族は近い将来の死を覚悟せねばならなかったが、現在では治癒の可能性を信じて治療することが可能になってきた。

もちろん、高血圧や糖尿病、肥満など生死に直結しないものの、健康な生活の妨げになるような疾患に対しても、多くの医薬品が開発され効果を上げ、今後さらに多くの病気に対する医薬品や治療法も世界中の研究者によって研究されていることから、多くの人々はその将来を楽観視するようになってきた。

感染症などは、今の日本人にとっては殆ど問題にならず、何かあっても近くの開業医のところへ行って、薬を処方してもらいそれを服用すれば数日中には熱も下がり回復するものだと考えられている。

しかし、このように人類が感染症に対する対処方法を獲得したのはそう昔のことではない。例えば第1次世界大戦では、多くの兵士や非戦闘員がこの戦争によって死亡したが、直接的に銃弾などで死亡した数よりも砲弾の破片、瓦礫などによる負傷が元となった感染症、劣悪な環境下での肺炎の感染などによって死亡したほうが多いといわれている。さらに、戦争のような特殊な状況でなくとも、ちょっとした怪我や軽い炎症でも細菌(ペストなどの特殊なものでなく、連鎖球菌やブドウ球菌といった我々の皮膚や口腔内、環境中に常に存在するような細菌)が血液中で増殖することにでもなれば、殆ど治療する手だてもなく死亡することも稀ではなかった。

既にコッホや北里柴三郎、志賀潔ら優れた研究者によってそれぞれの感染症が、対応する細菌によって引き起こされていることが明らかにされていたし、フェノールがこれらの細菌に対して殺菌作用を持ち、医療器具や体表面の消毒に用いれば、感染症による死亡率を下げられることも分かっていた。しかし、一旦体内に侵入した細菌に対しては、その毒性からこれらの殺菌剤を用いることはできなかった。

 

 

サルファ剤が医薬品開発に与えた影響

20世紀の初期のほとんどの科学者や医師らは細菌だけを殺し、ヒトの細胞に毒性を示さないような薬物の存在に懐疑的であり、種痘のようにワクチンの接種による予防だけが対応策であると考えていた。1930年代のこのような状況の中では、バイエル社に勤務していたドイツ人薬理学者ドーマクが、細菌を感染させたマウスに1000種類以上の染料を一種類ずつ投与してその致死率を調べるといった気の遠くなるような実験を5年以上も続け、著効を示す化合物を見出したという報告に、それを命じた会社幹部ですら俄かに信用しなかったのも当然だったかもしれない。これが人類の初めて手にした広域抗菌剤のサルファ剤であった。

サルファ剤がその優れた効果によって大量にしかも漫然と使用されたため、耐性菌が広がったことや、さらに多くの種類の細菌に有効で副作用の少ないペニシリンが使われだしたため、医薬品として輝いた時代は短かったものの、これによって救われた命は膨大なものとなった。このような直接的な恩恵もさることながら、医薬品開発の考え方に与えた影響はさらに大きかった。

それまで人々が手にしていた医薬品の殆どは、天然にある様々なものの中から経験を基にして治療に用いられたものであったのに対して、サルファ剤の発明は特定の疾患の治療を目的にした研究によって、人間が新たに作り出した化合物が優れた医薬品になりうることを示したのである。これを機に、医薬品開発が爆発的に加速したのは当然のことといえよう。

多くの人々が無理だと考えている課題に挑戦することは、目標とするゴールがそこにはなく、行っている全ての努力が無駄になるかもしれないという恐怖心や、不安と戦い続けることになる。道半ばにして力尽き、目標に達し得ない場合が多いという冷酷な現実があるにしても、果敢に、かつ粘り強く挑戦し続けることによって得られた成果のみが、その後の世界を大きく変えることができることがここに示されている。

中塚 隆 理学博士

(株)川村インターナショナル スペシャリスト

東京大学化学科卒業。東京大学理学系大学院博士課程修了。(専門:有機合成化学)
大学院卒業後、大手食品会社の生物医学研究所に就職し、創薬を目的とした有機合成に携わる。
その後、免疫系をターゲットとした創薬研究のほか、FDA提出書類レビュー、GMPやGLP関連業務、マネジメント業務を担当した。
2015年に(株)川村インターナショナルスぺシャリストに就任。

医療/医薬分野の翻訳案件のレビューを担当するほか、社内の医薬翻訳関係者の人材育成にも力を入れている。なかでも毎週開催される勉強会は、文系出身のメンバーにも分かりやすいと評判の講義である。